| 2014/04/14 | 日本芸術院会員、帝室技芸員、日展顧問、文化勲章受章者松林桂月は、5月22日午後9時、東京信濃町の慶応病院で脳軟化症のため逝去した。享年87才。桂月は、明治9年8月18日、山口県に伊藤篤一の次男として生れた。本名篤。明治31年松林家を嗣いだ。これより前、明治26年上京して野口幽谷に師事した。はじめ日本美術協会、展に出品し、つづいて文展に出品して屡々受賞した。大正8年以来帝展審査員となり、昭和7年帝国美術院会員同12年帝国芸術院会員に推され、同19年帝室技芸員を、命ぜられた。同33年美術界につくした功績によって文化勲章を授与された。近代に於ける南宗画界の代表作家で、南宗画の振興につくした功績は大きかった。 |
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日本画家横田仙草は、12月30日病気のため死去した。享年67才。本名専三。明治28年10月17日東京市本所区に生れた。大正4年私立早稲田実業学校を卒業。初め五島耕畝、織田観潮に絵を学び、大正13年小林古径に師事した。以後、日本美術院研究員として同院の展覧会に出品し、昭和9年院友となった。作品は其他帝展、聖徳太子奉讃展、白御会、璞友会等に発表した。戦後は、昭和26年新興美術院の再興にあたり之に参加し会員となる。主な作品に「早春葡萄図」(院展第27回)、「叢」(新興美術展第1回)、「果樹枝伸長図」(新帝展)等がある。 |
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日本画家渡辺聖空は12月18日脳溢血のため市川市の自宅で急逝した。享年69才。本名辰左右。明治26年3月12日岐阜県に生れた。名古屋商業を卒業後上京し、松林桂月に師事したが、後に門下を退き、新しい墨絵の技法の研究に向ひ、小杉放庵、小川芋銭、中川一政等と図り墨人会を結成した。墨人会は芋銭の没後休会したが、その後、更に古来の墨絵を研究、新しい手法を創り出し、新生面を求めて日本墨絵会を結成、その会長となった。昭和9年第1回個展を資生堂で開き、以後資生堂、文春ギャラリー、産経ホール等で14回個展を開いている。著書に「大虚画芸」と「墨絵の描き方」がある。 |
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日展評議員の日本画家吉田登穀は、第2国立病院に入院中であったが、7月16日死去した。18日世田谷区の自宅で天香画塾葬が行われた。享年79才。本名喜代二。明治16年12月1日千葉県に生れ、郷里村社日月神社の神職をつとめていた。絵は松林桂月に師事し、花鳥を専ら描き、日本美術協会、帝展、文展、日展等に発表した。大正9年第2回帝展に「あぢさい」が初入選し、昭和16年第5回文展で無鑑となった。また戦後は昭和21年の第2回日展「春深く」が特選となり、以後審査員を3回つとめた。主な作品に「春光」(回文展)「春深し」(2回日展)「山梨の花」(3回日展)等がある。 |
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新興美術院理事小川洗二は、5月13日東京都渋谷区の自宅で、狭心症のため死去した。雅号倩葭。享年57才。明治38年3月15日茨城県稲敷郡に、日本画家小川芋銭の二男として生れた。日本美術院試作展、第2回聖徳太子奉讃美術展、茨城美術展等に作品を発表した。昭和3年東京美術学校図案科を卒業し、その後は専ら挿絵を描いた。昭和12年石井鶴三、木村荘八、中川一政、岩田専太郎等と挿絵倶楽部を設立した。昭和33年新興美術院会員となり、同36年には理事に推されている。 |
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日展会員の日本画家近藤浩一路は、27日東京都港区の慈恵医大東京病院で脳出血のため死去した。享年78。本名浩。明治17年山梨県に生れ、同43年東京美術学校洋画科を卒業した。読売新聞社に入社し、一時漫画を描いて知られた。第4回文展に「京橋」、7回に「下京の夜」を出品した。のち日本画に転じ、大正8年第6回院展に「朝の日」、「夕の日」を出品し、同10年に日本美術院同人となった。翌11年フランスに留学し、西洋絵画を見学して水墨画の世界に入って行った。大正12年の第10回院展に発表した「鵜飼六題」は、彼が公表した最初の水墨画と言われるが、この作品により制作の方向を明示するとともに画壇的な位置を決定的にした。大正13年以来京都に移住し、昭和12年に及んだがこの間「京洛十題」「犬山夜漁」「桶狭間」「雨余晩駅」等の代表作を生み、独自の画風を確立した。昭和6年再渡欧し、カモエン街の私邸で個展を開き之を機縁にアンドレ、マルロオ等の交友がはじまった。またマルロオの斡旋によって翌7年にはN・R・F社の画廊で第2回個展を開き、多くの反響をよんだ。帰国後院展に作品を発表し中には昭和10年第22回院展出品「御水取八題」のように初期の佳作をはるかに凌駕するような力強い佳品もみられる。彼はその出品を最後に日本美術院を脱退し、間もなく京都から東京に帰った。その後は専ら個展によって作品を発表し、一時画壇の傍系的存在である観があったが、昭和34年日展会員になった。これよりさき昭和28年には、日本橋三越において「水墨30年回顧展覧会」が盛大に開かれ、大正12年頃より当時に至る50余点の作品が陳列された。彼は洋画に出発し、東洋の水墨画に光線をあたえて伝統を破った独自の画風を確立した。 |
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日本画家幸松春浦は、3月6日死去した。享年61才。本名猪六。明治30年6月30日大分県大分市に生まれた。小室翠雲、姫島竹外に師事し、第2回帝展に初入選以来連年出品をつづけ、第7回、第8回では特選になった。昭和3年無鑑査となり、戦後日展には依嘱として出品した。中国、朝鮮等を巡迴し、主な作品に「秋思」「雪路」「老子」「旅愁」等がある。 |
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日本画家北村明道は1月28日、食道ガンのため逝去した。享年66才。本名延蔵。明治29年1月5日、群馬県高崎市に生れた。昭和2年第8回帝展に「御園生の春」が初入選となり、翌年第9回展に「あかつき置き」が入選、以後帝展、文展、戦後は日展に出品をつゞけていた。日月社の委員で、また郷里の群馬県美術運営委員などもつとめていた。中国に2回旅行し、歴史、風俗研究に興味をもっていた。代表作に日蓮上人一代絵巻がある。 |
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挿絵を描いて知られた井川洗厓は、10月13日神奈川県厚木に於いて死去した。享年86歳。明治9年5月1日岐阜市に生れ、明治25年大阪に出て、稲野年恒に師事し人物画を学び、後上京して富岡永洗に就いた。明治39年都新聞社に入り、挿絵を担当したのを初めとして、以後各雑誌の挿絵を執筆して、有名となった。昭和13年以後は、挿絵界を引退し、その後は専ら美人画を描いていた。 |
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日本画家福永晴帆は、1月12日老衰のため、鎌倉市の自宅で死去した。享年80歳。明治16年5月15日山口県厚狭郡に生れ、同30年京都に出て森寛斎に師事した。明治41年伊藤博文に随行し、朝鮮、北京、上海を巡遊、43年には香港より欧州に渡り、英国ヴィクトリア美術学校に学ぶ。其後巴里に在って水彩、油絵を学び、大正4年帰国した。その年東京下谷に居を定め、文展に日本画を出品し、入選している。その後昭和に入って内親王方に花島画を献上し、又依頼され、東京商工会議所会議室に「桜と菊花」を描き、また靖国神社、仁和寺、伊勢、橿原、熱田神宮等に襖絵がある。戦後は、24年より10年程日本橋高島屋に毎年個展を開いていた。 |
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日本画家名取春仙は、3月30日東京青山の同家の菩提寺で妻繁子と共に自殺した。春仙は本名芳之助。明治19年東京市麻布区に生れた。中学時代から久保田米僊、金僊の司馬画塾に入門し、春僊と号した。仙は略字として用いた。明治30年代の作品には、「牧牛」(真美会・明治35)、「奈良の春」(丹青会・明治36)、「遮那王(牛若)」(日本画会・明治38)、「救世軍」(明治絵画協会・三等賞・明治40)などがある。結城素明、平福百穂に注目され新日本画運動に加わり旡声会に出品、「獅子と麟麟」「田舎の靴屋」など出品、また、「松助の顔」(43年)「韮山の太閤」(44年)もこの頃の作である。琅玕洞に度々出品し、やがて大観、観山に認められ日本美術院にも出品するようになった、また珊瑚会の創立にも加わり、「伊豆の春」「緑の裡の光」などがある。然し、大正8年頃から制作にも、生活にも懐疑的になり、余技であった劇画に逃避し、その後は演芸画報、その他新聞雑誌の口絵、挿絵に筆をすすめ、松坂屋、三越、伊勢丹などデパートに於ける劇画展、個展に屡々芝居絵を出品した。又、「大日本神典画巻」の制作にも着手している。挿絵には漱石の「三四郎」、藤村の「春」、長塚節の「土」の執筆があり、「金色夜叉画譜」(清美堂版)、「春仙似顔集」(渡辺版)その他一枚刷の版画制作も少くない。 |
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日本画家今中素友は、かねて入院療養中のところ、8月1日死去した。本名善蔵。別号に知章、草江軒がある。福岡市に生れ、郷里で上田鉄耕に数年間師事し、ついで川合玉堂の門に入つた。明治41年文展初入選以来、官展を主要なる発表の場として活躍した。 略年譜 |
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南画院同人の福田浩湖は、5月19日直腸癌のため、お茶ノ水順天堂病院で逝去した。享年76歳。本名浩治。明治16年3月14日東京市本郷に生れた。明治31年佐竹永湖のもとに入門、南画家を志し、とくに文晁を研究した。入門の翌年から日本美術協会の展覧会には出品をつづけ、「夏山水」「四季山水」など、いくつかの受賞作がある。文展には、大正3年第8回展に「竹窓閑話」が入選したのが最初で、9回展の「幽溪積翠」は褒状をうけた。帝展は第7回展から殆ど毎回出品し、第15回展から無鑑査待遇となつた。この間、日本画会にも出品、また昭和2年日本南画院に入会、同5年に同人に推されたが、11年同会解散後は有志とともに南画連盟を組織して委員となつた。大戦後、昭和21年南画院を興し、南画の再興に努力し、また、日展の委員にあげられていたが、晩年は老令のため制作発表は少かつた。その他昭和16年大東南画院の創立にも加わり、翌年の同展に「水辺遅日」などを出品している。大正9年及び31年、昭和16年の3回にわたり中国に外遊、更に台湾、朝鮮など各地に旅行している。 作品略年譜 |
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新興美術院会員河村双舜は、かねて入院療養中のところ、1月28日胃癌で死去した。本名良孝、明治40年6月19日東京に生れ、第16回再興院展に「緑野」が入選以来引続き院展に出品し、主な出品作に「朝顔」(17回展)、「緑庭」(19回展)、「椿」(30回展)、「翠映」(32回展)等があり、昭和33年には新興美術院に移り会員となつた。同年の作品に「人間」があるが、この制作を最後として翌34年逝去した。 |
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日展出品依嘱作家赤松雲嶺は10月16日敗血症で逝去した。享年62才。自宅は大阪市東住吉区。明治25年12月12日大阪市に生れた。本名好亮。明治32年大阪の南画家小山雲泉のもとに入門し、雲泉没後、45年さらに姫島竹外(昭和3没)につき南画を学んだ。大正4年第9回文展に「渓山清趣」(2曲1双)が初入選となり、そのご帝展の第5・8・9回をのぞき毎年官展に出品し、昭和5年第11回帝展から無鑑査待遇となつた。日本南画院同人で、また画塾墨雲社を主宰していた。戦後は、日展の出品依嘱者として昭和25年第6回日展に「香落湊」を出品している。主要作品に南画院出品の「惜春」(2曲1双)、帝展出品の「金風万籟」「木曾川」などがあり、他に大阪府から東久迩宮へ献上の「金剛山の図」、秩父宮へ献上の「高槻名所の図」、天皇神戸行幸の折、衝立に揮毫の「玉堂富貴の図」などがある。 |
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日本画家、大貫徹心は(旧号銕心、本名、堅)は8月11日栃木県矢板の自宅で逝去した。享年63歳。明治25年1月13日栃木県塩谷郡に生れた。東京美術学校日本画科に学び、大正8年卒業、川合玉堂に師事していた。昭和2年第8回帝展に「和む里」が初入選となり、9回展「白樺の小径」、10回展「春の奥利根」11回展「霧降りの滝」とつづいて出品入選した。大和絵風の様式化を試み緻密な描写をみせていたが、昭和9年第15回帝展の「静日」あたりから写生をもとにした明るい近代風な描写に変つていつた。その後は昭和11年改組帝展(2月)「駅路の雪」、文展(10月)「山湖朝霧」、17年第5回文展「那須のつゆ時」などがあり、戦後の日展には昭和25年第6回展に「青巒」、第7回展に「馬事研究所」を出しているが晩年の制作発表は少なかつた。東台邦画会、下萌会の会員で、官展を作品発表の主な機関としていた。なお昭和32年7月以後の作品は徹心の号を用いた。 |
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日本美術院同人大智勝観(本名恒一)は、数年来高血圧症で病臥中のところ、8月8目杉並区の自宅において、脳軟化症のため逝去した。勝観は明治15年1月1日愛媛県今治市に生れ、同35年東京美術学校日本画科を卒業、当時の1年志願兵として兵役に入り、歩兵少尉として日露戦役に従軍した。大正2年第7回文展に「雨の後」を出品し、3等賞を受領、翌大正3年には日本美術院再興第1回展に「聴幽」を出品し、そのカを認められて同人となつた。以後没するまで連年日本美術院に力作を発表し、長老格として重きをなし、また戦後は日展にも作品を送り参事をつとめた。なお昭和5年には伊太利において開催された日本画展覧会に参加する横山大観、平福百穂、松岡映丘、遠水御舟らの一行に加わり欧州を半年程漫遊し、この時の大観と共著の「渡伊スケッチ集」(昭和5年朝日新聞社発行)がある。作品は風景を主とし初期の頃は、大正期一般の風潮を反映した光をとり入れた自由な描法になる力作が多いが、次第に淡雅な様式化を帯びて、晩年に至つては更に緊密端正な傾向がみられる。 |
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日本画家水田竹圃は7月11日心臓衰弱のため京大病院で逝去した。享年75才。本名忠治。別号満碧堂、積翠堂、水竹居、蟻池庵。自宅は京都市北区。明治16年2月14日大阪市に生れた。同30年大阪で姫島竹外の門に入つて南画を学び、また伊藤介夫に漢学の教えをうけた。大正元年第6回文展で「渓山滴翠」が初入選で褒状を受け、更に8回、9回展でも受賞し、同5年10回展では「早春」が特選となつて画壇に認められた。大正8年、京都に居を移し、同10年には河野秋邨らと日本南画院を創立した。日本南画院展には昭和10年解散するまて毎年出品し、帝展も大正15年第7回展に委員に推され、昭和12年以降の文展にかけて出品をつづけている。日展には第4回から出品依嘱者として作品を送つている。大正10年より画塾菁我会を主宰し南画の指導、興隆に尽力した。なお水田硯山は実弟、水田慶泉は長男である。主な作品は「普陀」「三峡」「秋声」「残照」「月光」など。 |
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日本画家五島耕畝は、6月11日新宿区の自宅で逝去した。享年76才。本名貞雄。明治15年4月3日茨城県に生れた。明治34年荒木寛畝のもとに入門し、36年には美術協会展で二等賞をうけ、翌年美術協会の会員となつた。つづいて美術協会、同研究会、或は美術研精会に出品して毎年連続して1~2等賞を受賞している。文展には2、5、8、9、10回展に出品し大正4年第9回展では「深山の秋」(6曲1双)が褒状となつた。帝展は第4回展から入選し、「桃」(第4回展)、「猫」(第5回展)、「長閑」(第7回展)などを経て、昭和4年第10回帝展で「池畔」を出品、5年第11回帝展から無鑑査待遇をうけた。帝展では「秋の裏園」(11回展)、「軍鶏」(15回展)などがある。いづれも、寛畝の系統をひく細密な花鳥画を特徴としている。昭和期の文展では17年第5回文展に★をかいた「後苑」などがあり、戦後、日展委員にもあげられたが、晩年は殆ど展覧会に作品を発表していない。 |
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日本芸術院会員、京都美術大学名誉教授西山翠嶂は、3月30日心筋梗塞のため京都市東山区の自宅で逝去した。享年78歳。本名卯三郎。明治12年4月2日京都に生れた。若くして竹内栖鳳の門に入り、また京都市立美術工芸学校に日本画を修めた。明治30年代からすでに京都の諸展覧会で受賞をつづけたが、その名を広く認められたのは文展以後である。明治40年第1回文展に「広寒宮」を出品して3等賞を受けたのをはじめ、その後つづいて受賞或いは特選となつた。文展時代の作品には「採桑」「未★の女」「落梅」などがある。大正8年帝展の開設とともに審査員に選ばれ、昭和4年帝国美術院会員に推された。帝展時代の主なものには「春霞」「木槿」「乍晴乍陰」「くらべ馬」「牛買ひ」などがある。帝展改組後芸術院会員となり、新文展の審査員もつとめた。この時期のものに「雨餘」「洛北の秋」などがある。昭和19年帝室技芸員を命ぜられ、栖鳳なきあとは京都画壇だけでなく日本画壇の長老として重きをなした。終戦後もたゆまぬ制作をつづけ、日展などに「黒豹」「山羊と猿」などを発表した。また日展運営会理事、芸術院会員選考委員をつとめ、美術の発展につくした。彼はまたはやくから母校に教鞭をとり、大正8年には京都市立絵画専門学校教授となり、さらに昭和8年から11年までその校長をつとめた。また大正10年頃画塾青甲社を創立して堂本印象、中村大三郎、上村松篁など多くの門弟を育成した。かように、彼の活動は多方面にわたつたが、昭和32年生の功労によつて文化勲章を授けられた。 |